INICIAR SESIÓN湊に怒られた後、蓮司は次の面会を取りやめようかと考えた。
自分を受け入れることが、湊にとって宿題のようになっては怖い。紗月にメッセージを送った。
【湊が望まなければ、今週はお休みにします】
1時間後、返信が届いた。
【本人に聞いてから、お知らせします】
その晩、湊は『パパが来なかったら、練習できないじゃん』と言った。
その返事を蓮司に伝える前に、紗月はカウンセラーに確認した。本当に会いたいのか。それとも、自分が怒ったことを取り消さなければと感じているのか。そこを見極めたかった。
カウンセラーはビデオ通話で湊に尋ねた。
「パパが今週はお休みしても、大丈夫?」
「休んだら、来週は来る?」
「湊くんが会いたければ」
「じゃあ今週も来て。聞きたいことあるもん」
「パパを元気にしてあげたくて、会うんじゃないよね?」
湊は少し考え、首を横に振った。
「なんで電話に出なかったのか、聞くの」
<ルミエールの受付に、見知らぬ中年女性が訪ねてきたのは、昼ごろだった。紗月に直接会いたいと言い、古い茶封筒を胸に抱えていた。真帆が身分証を確認して、名前がわかった。坂井文乃。5年前、桐生雅子の家で働いていた家政婦だった。紗月は会議室のドアを閉め、向かいに座った。「私を覚えていらっしゃいますか?」「はい。最後の日に、荷物をまとめてくださいましたね」文乃は膝の上で手をこすった。「あのとき、ちゃんとお助けできなくて、申し訳ありませんでした」「今日は、どうされたんですか?」文乃が封筒をテーブルに置いた。表には、紗月の字で桐生蓮司と書かれていた。切手も貼っていない、社内受け渡し用の封筒だった。「どうして、これを持っているんですか?」「一ノ瀬代表がお出になった翌日、警備室の机の下に落ちていたんです」紗月は記憶をたどった。離婚書類に署名した日、病院でもらったエコー写真と診断書を封筒に入れ、蓮司に届けてほしいと警備室の職員に頼んだ。「会長には、届かなかったんですね」「秘書室に回す前に、理事長の秘書が持っていきました。でも、その日の夕方、また警備室へ戻ってきて。処分するようにというメモがついていました」「どうして、処分しなかったんですか?」「写真が見えたんです」文乃はうつむいた。「封筒が少し破れていて、エコー写真の端が出ていました。いくら何でも、赤ちゃんの写真は捨ててはいけないと思って……私が持って帰りました」「5年間も?」「最初は、お返しする方法がなくて。番号も変わっていましたし、理事長から探すなと言われていました。後になっては、もう遅すぎると思うと怖くなって」紗月は封筒に触れられなかった。紙は黄ばみ、角がすり減っていた。中のエコー写真に写る湊は、指1本より小さかった。「今、持ってきたのは、どうしてですか?」「ニュースで代表を
桐生雅子は、約束の時刻から30分遅れて現れた。蓮司は母の家の書斎で待っていた。テーブルには、不正に作られた口座の資料、残高証明書、当時の離婚合意書の草案が並んでいた。書類を見た途端、雅子の顔がこわばった。「どうして、またこれを持ち出したの?」「母さんが、どこまで知っていたのか確かめるためです」「もう終わったことよ」「紗月にとっては、終わっていません」蓮司の持参した録音同意書を見て、雅子は署名を拒んだ。蓮司は無理に録音機をつけなかった。「同意されないなら、今日の話はここで終わりにします。その代わり、外部監査と捜査機関からの書面での照会に、お答えいただくことになります」息子が立ち去ろうとして初めて、雅子はペンを取った。「家族で話すのに、こんなものまで必要なの?」「家族だからと記録を残さなかった結果が、今の状況です」署名を待って、蓮司は開始時刻と同席者を口頭で確認した。いつでも面談を打ち切れると伝えたうえで、最初の質問に移った。蓮司は録音機を作動させた。雅子が鋭く尋ねた。「私を取り調べるつもり?」「はい」隠そうともしない答えに、雅子は椅子に座った。「何が聞きたいの」「一ノ瀬紗月名義の口座は、誰が作ったんですか?」「私は知らないわ」「残高証明書を見せたのは、母さんです」「桐生彰人が持ってきたのよ」雅子は少し口をつぐんでから、続けた。「あの女のせいで、あなたが後継争いから外されるかもしれないと言ったの。一ノ瀬紗月が金を要求したという情報が入ったと、資料を見せてきたわ」「確かめたんですか?」「法務チームに確認するよう言ったわ」「母さんが選んだ法務チーム長が、偽造された委任状に印を押しています」雅子の目が揺れた。「それは知らなかった」「では、何を知っていたんですか?」書斎の時計が1つ鳴っ
桐生彰人は、瑞城コンサルティングという名前を聞いても、まばたきひとつしなかった。「昔の委託先まで、私が覚えている必要があるのか?」蓮司は専務室のテーブルに、契約書の写しを置いた。「5億2,000万円の契約です。ご自身で決裁されています」「桐生リゾートのイベント代行だろう」「イベントは開催されていません」彰人が椅子にもたれた。「会計監査を通った費用なら、担当者に聞いてくれ」「担当者は、当時の専務の運転手です。今は海外にいます」「疑いの目で見れば、誰だって怪しく見える」蓮司は別の書類を出した。瑞城から紗月名義の口座へ、5億円が入金された履歴だった。彰人の目が、ごく一瞬止まった。「なぜ、これを私の机に?」「5年前、私はこの残高証明書を見て、妻を捨てました」「それは君たち夫婦の問題だ」「会社の資金が使われています」蓮司が持参したのは契約書の原本ではなく、裁判所の定めた証拠保全手続きによって確保した写しだけだった。監査チームの2名と外部弁護士も、扉の外で待っていた。親族同士でひそかに収める話ではないと、最初から明確にするためだった。「瑞城の法人印は、設立から廃業までに3度変更されています。2度目の変更申請書に記載された連絡先は、専務秘書室の番号でした」彰人は書類を見もせず、笑った。「秘書室の番号は、何十もの系列会社が使っている」「だから断定せずに、お尋ねしているんです。この会社と、どんな関係があったんですか?」「ない」「そのお答えも記録します」蓮司が録音機の時刻を確認すると、彰人はようやく自分の法務担当を呼んだ。外部弁護士は、聞き取りを中断して正式な監査日程を組むと告げた。蓮司は引き止めなかった。答えを強いるより、拒否した事実を残すことが大切だった。「会社の資金だという証拠は?」「リゾートの業務委託費が、同じ日に瑞城の口座へ入っています」彰人はゆ
銀行本店の個別相談室には、黒川律弁護士と、支店のコンプライアンス担当者が同席した。紗月は口座開設申込書の写しを前に、自分の署名と見比べた。形はよく似ていた。「一」の横線を長く引き、「月」の最後のはねを強く上げる癖までまねてある。だが紗月は、結婚前から仕事の契約書には、旧姓を使ったローマ字のイニシャル「I.S.」も添えていた。偽造された書類には、それがなかった。「この口座から、出金は一度もされていないんですね?」「はい。入金後1か月間、そのままでした。その後、名義人から事故口座の申告がないにもかかわらず、取引停止になっています」「誰が停止を求めたんですか?」担当者が別の書類を取り出した。「開設時の代理人が、紛失を理由に届け出ています」代理人の署名は、口座開設時のものと違った。誰かが急いでなぐり書きした名前だった。「身分証の写しは、どこから入手したのでしょうか」黒川が尋ねると、担当者は困った顔をした。「当時の委任状は公証を受けた体裁で、法人VIPセンター経由で受け付けています。行員による本人確認が、不十分だったと思われます」「VIPセンターへの紹介者は?」「桐生グループ法務室の名義でした」紗月は1枚ずつ書類を撮影した。5年前、桐生家を出る日は、財布さえまともに持ち出せなかった。運転免許証は、離婚書類を準備するからと、雅子側の法務チームに預けたことがある。あの短い隙があれば、十分だったのだろう。銀行を出た瞬間、スマートフォンが鳴った。来週に挙式を控えた顧客、高梨美緒だった。『代表、すみません。契約をキャンセルしなければならなくなりそうで』紗月は歩道で足を止めた。「何かあったんですか?」『彼の両親が、今日の記事を見たんです。お金の問題がある人に、結婚式を任せられないって……』電話の向こうから、泣き混じりの息が聞こえた。「美緒さんが決めたことですか?」
瑞城コンサルティングは、書類の上にしか存在しない会社だった。登記上の住所は多摩地区の郊外の古い商業ビル。事業目的は経営コンサルティングとイベント代行だった。従業員はおらず、5年前、数か月にわたって巨額の金が動いた後、廃業していた。神谷直人が、資金の流れを画面に映した。「瑞城の口座に5億2,000万円が入り、2日後、一ノ瀬代表名義の口座に5億円が振り込まれています。残りの2,000万円は、現金と複数の個人口座へ分散されました」「5億2,000万円の出どころは?」「桐生リゾートの海外イベント業務委託費です。当時の契約決裁者は、桐生彰人専務でした」蓮司は1枚ずつ書類をめくった。紗月名義の口座は入金当日に開設され、身分証の写しと委任状が使われていた。出金はない。1か月後には取引停止になっていた。「俺が見たのは、残高証明書だけだった」「当時の法務室も、実際の口座履歴は確認できていません」「見ようとしなかったからだ」外部の会計事務所は、資金の流れを3つに分けた。桐生リゾートから瑞城へ入った5億2,000万円、紗月名義の口座に残った5億円、現金化された2,000万円。同じ日に作成された契約書には、開催地は『東南アジアの主要都市』としか書かれておらず、参加者名簿も実施報告書も空欄だった。「この金額なら、取締役会への報告対象ではなかったか?」「契約を4件に分割しています。1件ごとの金額は専決限度額未満で、決裁時刻も10分ずつずれています」「実務担当は?」「当時の財務チーム課長、石崎雅人です。半年後、桐生彰人専務の直属部署に異動し、昨年退職しています」蓮司は人事記録と決裁ログを、証拠保全の対象に加えた。瑞城という幽霊会社だけを追えば、実際に書類を作った者たちが逃げおおせる。蓮司の言葉に、神谷室長は口を閉じた。その日の午後、紗月に関する古い記事が、再び拡散された。【独占:桐生蓮司の元妻、離婚の対価として5億円受領か】記事には残高証明書の写しが添えられていた。5年前、雅
湊に怒られた後、蓮司は次の面会を取りやめようかと考えた。自分を受け入れることが、湊にとって宿題のようになっては怖い。紗月にメッセージを送った。【湊が望まなければ、今週はお休みにします】1時間後、返信が届いた。【本人に聞いてから、お知らせします】その晩、湊は『パパが来なかったら、練習できないじゃん』と言った。その返事を蓮司に伝える前に、紗月はカウンセラーに確認した。本当に会いたいのか。それとも、自分が怒ったことを取り消さなければと感じているのか。そこを見極めたかった。カウンセラーはビデオ通話で湊に尋ねた。「パパが今週はお休みしても、大丈夫?」「休んだら、来週は来る?」「湊くんが会いたければ」「じゃあ今週も来て。聞きたいことあるもん」「パパを元気にしてあげたくて、会うんじゃないよね?」湊は少し考え、首を横に振った。「なんで電話に出なかったのか、聞くの」会いたい理由がはっきりすると、紗月は予定どおり面会を行うと蓮司に伝えた。ただし、質問をかわしたり、ほかの家族のせいにばかりしたりすれば、その日の面会は終わりにするという条件をつけた。次の面会は、予定どおり行われた。蓮司はブロックも絵本も先に出さなかった。湊がソファの端に座って足を揺らす間、向かいで待った。「パパ」「うん」「ママ、何回電話したの?」蓮司は回数を知らなかった。「まだ、調べているところなんだ」「いっぱいした?」「いっぱい、してくれたと思う」「なんで出なかったの?」「会議中だから、電話を切っておくように言ったんだ」「会議が終わったら見ればいいじゃん」4歳の子の問いの前では、複雑な経営権の話など、何の意味もなかった。「後になっても、ちゃんと見なかった」「なんで?」「ほかの人に、ママはお金をもらって出ていったって言われたから。







